道民に訃報!日高晤郎ショーパーソナリティー日高晤郞さん死去、なぜ?!

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突然の訃報が届きました。

毎週土曜のSTVラジオで長年パーソナリティーを務めていた、日高晤郞さんが4月3日午前10時48分に永眠されました。

引用元:NAVERまとめ

道民のほとんどが知っているであろう名パーソナリティーの日高晤郞さん。

亡くなった原因やこれまでの経歴について調べてみました。

日高晤郞さんの死因は?

今年に入ってから悪性腫瘍(脂肪肉腫)が見つかり通院治療中でしたが、3日朝容態が急変しお亡くなりになりました。

本人の強い意志により、先月までステージの司会進行、番組出演などギリギリまで仕事を続けていました。

死因は脂肪肉腫とのことですが、無痛性のコブができる他は自覚症状に乏しいものため、発見が遅れてしまったのかもしれません。

日高晤郞さんの経歴

日高晤郎さんの出身地は北海道ではありません。

道内ではラジオなどで活躍されているので、北海道出身かと思っていましたが、実は大阪出身でした。

1960年に大映京都撮影所演技研究所に入所し、翌年「新谷新吾」と名乗って映画デビュー。

この時共演した市川雷蔵さん、後に勝新太郎さんに目をかけられ、二人を師匠として数々の映画に出演しています。

1965年には活動の場を広げたいと大映を退社、芸名を「飛鷹一」として上京。

しかし、満足な仕事はなく弾き語りやクラブのボーイなどで食いつなぐ生活を続けることになります。

1967年クラウンレコードから「流れ者小唄」で歌手デビュー。

この時読みにくいという理由で「日高五郎」(後に晤郎に改名)となりました。

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1969年市川雷蔵さんの死去をきっかけに歌手を挫折、その後俳優、レポーター、声優として活躍。

1977年かつての役者仲間のから懇願され、札幌のキャバレーでステージを務めると、オーナーに気に入られました。

この時「何をやりたいのか」と問われ「自分のラジオ番組がやりたい」とはなしたところ、STVラジオのディレクターを紹介され

1983年4月「ウィークエンドバラエティー日高晤郎ショー」が始まりました。

「日高晤郎ショー」はスタート当時は3時間の放送でしたが、翌年には8時間に拡大。

さらに1987年には9時間にまで拡大され、日高晤郎さんは番組スタートから亡くなるまでの35年間メインパーソナリティーを務めました。

アンチも多かったしゃべり

日高晤郎さんのしゃべりは、ユーモア、ウィットに富んでいて、知性や温かい人柄を感じさせるトークでリスナーの支持を集めていました。

その一方、毒舌でも注目されていました。

日高晤郎さんは、「いいものはいい、ダメなものはダメ」と躊躇なく批評し筋を通すことを徹底していました。

かなりキツイ言い方や毒を吐くこともあり、批判されることも多くありました。

これについては本人も承知の上で「8割の人に嫌われてもいい。残りの2割の人を大事にしていきたい」と番組内でも語っていました。

とはいえ、批判する人たちも結局は「日高晤郎ショー」を聞いているわけで、良くも悪くも多くの人たちに注目されていた点ではすごい人物だったと思います。

まとめ

ラジオ以外にも、ひとり語り公演・ディナーショー・テレビやラジオCMなどで活躍し、道内で日高晤郎さんを知らない人はほぼいないと思われます。

この度の訃報でも、ネット上では突然の死を悲しむ声や感謝を伝える声があふれています。

自らを話芸人と称し、亡くなる直前まで精力的に仕事をこなしていた日高晤郎さん。

最後の最後まで仕事を全うされた姿には尊敬します。

長い間お疲れさまでした。

ご冥福をお祈りします。

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